コンビニ人間 ①

村田沙耶香コンビニ人間』を読んだ。

 

すこし前に、たしかブックオフでほかの本といっしょに買ったのだけど、数ページ読んでそのまま本棚の片隅にしまわれていた。この頃、小説をぼちぼち読んでいて、とくに現代の女性作家の作品が面白いと思っていたのもあるし、午後に時間ができたときにちらっと目に入ったので手に取った。

 

まずタイトルに惹かれる。惹かれるというより、引っかかるというほうが適切かもしれない。コンビニというモチーフには、ある種のステレオタイプ的なイメージがある。それは、現代の高度資本主義社会の象徴であったり、機械化された労働者のデフォルメであったり、社会的地位の低さを示す属性だったりする。そのようなパブリックイメージの定着した言葉を堂々と冠して傑出した文学作品として認められたということが、却ってその内容への興味をより引き立てるのだ。それに僕自身、コンビニでアルバイトをしていた経験があり、いまもコンビニではないけれどアルバイトで生活をしていて、そういう無機質で単調な労働行為が、ほかの人にはどのように見えていて、言葉になるのだろうかということが気になったのだ。

 

「コンビニ」で思い出すのは、2年前に三軒茶屋のシアタートラムで観た、チェルフィッチュの『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』という舞台だ。同劇団による2014年の『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』という作品のリメイクで(僕は初演は観ていない)、公式HPの紹介文いわく、「現代社会の聖地コンビニで次々に起こる取るに足らない出来事を舞台とした本作は、全編に流れるバッハの平均律クラヴィーア曲集第 1 巻にあわせて、ユーモアと風刺にあふれる視点で現代人の価値観の移り変わりや、鬱屈、押し寄せる分断の時代を描き出し各地で賞賛され、 NHKBS プレミアムでの放映も大きな話題を呼びました。 初演から 4 年を経て再創作される今作は、テキストはそのままに、新たなバージョンアップの要素としてこれまで 以上にばかばかしいほどに動きの過剰さを加速させ、ほとんどダンス作品のような様相に昇華していきます。テキストに対して、 身体とその動きを極端なまでに凌駕させるという方法によって、止まることのないコンビニの過剰さ、空虚さがあらわになり、 そこに浮かび上がるのはまぎれもなく「いま」の私たちのすがたに違いありません。 ますますスピードを増して分断する現代社会の本質を射抜く今作に、どうぞご期待ください。」ということだが、大方その通りの作品だった。僕が観た回のアフタートークのゲストに村田沙耶香さんが呼ばれていたが、そのときのトークの内容は覚えていない。

 

話が少し逸れたが、この舞台のことを思い出したのは、小説の冒頭における淡白で客観的な描写に、やはりコンビニという場所の持つ独特の、ともすればチェルフィッチュ的な「空虚さ」が感じられたからだった。店内放送や機械の音、店員の掛け声や客の動作、商品やお金の出入りなど、自動化され、反復される音や動きの数々。だが、この小説は、そのような描写によって「コンビニは現代の象徴である」というような図式の現前化を目したチェルフィッチュの舞台とも異なり、より切実な「生」の感覚を呼び起こさせるものだった。

 

主人公の古倉恵子は、大学一年生の頃から18年間、同じコンビニでアルバイトを続けている女性だ。「スマイルマート日色町駅前店」のオープニングスタッフとして働き始めた日々が回想される場面、二週間の研修を経て初めて「本物」のお客さんを迎えたときの描写が、とても面白い。

 

「いらっしゃいませ! 本日、オープニングセール中です! いかがでしょうか!」

店の中で行う「声かけ」も、実際に「お客様」がいる店内では、まったく違う響きで反響した。

「お客様」がこんなに音をたてる生き物だとは、私は知らなかった。反響する足音に、声、お菓子のパッケージをかごに放り込む音、冷たい飲み物が入っている扉をあける音。私は客の出す音に圧倒されながらも、負けじと、「いらっしゃいませ!」と繰り返し叫んだ。

まるで作り物ではないかと思うほど綺麗に並んでいた食べ物やお菓子の山が、「お客様」の手であっという間に崩されていく。どこか偽物じみていた店が、その手でどんどん生々しく姿を変えていくようだった。

 

この場面がどこか感動的なのは、繊細な聴覚描写によって、その場所の緊張感が捉えられているからだ。飲食店や販売店のオープニングスタッフを経験したことのある人ならわかりやすいかもしれないが、ほかにもたとえば、舞台の幕が上がるときの劇場の空気や、クリスマスの朝にプレゼントの包装を剥がす瞬間、ワックスがけされた新学期の教室にいちばんに入るときなど、なにかを初めて体験するときの緊張と高揚が伝わってくる。そのようにしてこの日、古倉恵子は「初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたのだと思った」と、コンビニ店員として生きる啓示を得る。

 

コンビニ店員として生まれた恵子は、どこにいてもコンビニのことを考え、コンビニのために体調管理をし、寝る前にはコンビニの音を想像することで眠りにつく、というすべてがコンビニ中心の生活をする、まさに「コンビニ人間」だ。人物をデフォルメ化してシニカルに本質を突くというような手法はコメディではよくとられるものだが、この小説には、どの人物にもそのような作劇上の都合からでは表出し得ない生々しさが宿っている。

 

毎日働いているせいか、夢の中でもコンビニのレジを売っていることがよくある。ああ、ポテトチップスの新商品の値札がついていないとか、ホットのお茶がたくさん売れたので補充しなくては、などと思いながらはっと目が覚める。「いらっしゃいませ!」という自分の声で夜中に起きたこともある。

眠れない夜は、今も蠢いているあの透き通ったガラスの箱のことを思う。清潔な水槽の中で、機械仕掛けのように、今もお店は動いている。その光景を思い浮かべていると、店内の音が鼓膜の内側に蘇ってきて、安心して眠りにつくことができる。

朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。

 

仕事中の単純作業の映像が、寝ているときに夢に現れることは多くの人が経験したことがあるだろう。そして、眠れないときに何気ない風景を思い浮かべて没入していくときの感覚にも覚えがある。ここに顕著なように、この小説では感情や思想ではなく、感覚に力点を置いて人物が描写されている。そのため、読者には共感以前に、感覚レベルでの共鳴が生じる。そして、感覚レベルでの共鳴というのは、日常的に誰にでも、たとえば人対人の間でも起きているということを主人公自身、見抜いており、そのこと自体が主人公のキャラクターを構成する重要な特性の一つになっている。

 

今の「私」を形成しているのはほとんど私のそばにいる人たちだ。三割は泉さん、三割は菅原さん、二割は店長、残りは半年前に辞めた佐々木さんや一年前までリーダーだった岡崎くんのような、過去のほかの人たちから吸収したもので構成されている。

特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。

大抵のひとはそうなのではないかと、私は思っている。前に菅原さんのバンド仲間がお店に顔を出したときは、女の子たちは菅原さんと同じような服装と喋り方だったし、佐々木さんは泉さんが入ってきてから、「お疲れさまです!」の言い方が泉さんとそっくりになっていた。泉さんと前の店で仲が良かったという主婦の女性がヘルプに来たときは、服装があまりに泉さんと似ているので間違えそうになったくらいだ。私の喋り方も、誰かに伝染しているのかもしれない。こうして伝染し合いながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。

 

主人公が非現実的な「啓示」を受け、常識から逸脱した価値観を持っていながらも、その一人称での語りに巻き込まれていくように感じるのは、その言葉が、まず「普通」を想定した上で自身を「普通じゃない」側に置いているひとのものではなく、あくまで自分は正常に生きている人間であり、それが周りの人たちとずれているという事実に悲観も楽観もせず他人事のように冷静に向き合っているからでもある。

 

「付き合ったこととか......恵子からそういう話、そういえば聞いたことないなって」

「ああ、ないよ」

反射的に正直に答えてしまい、皆が黙り込んだ。困惑した表情を浮かべながら、目配せをしている。ああそうだ、こういうときは、「うーん、いい感じになったことはあるけど、私って見る目がないんだよねー」と曖昧に答えて、付き合った経験はないものの、不倫かなにかの事情がある恋愛経験はあって、肉体関係を持ったこともちゃんとありそうな雰囲気で返事をしたほうがいいと、以前妹が教えてくれていたのだった。「プライベートな質問は、ぼやかして答えれば、向こうが勝手に解釈してくれるから」と言われていたのに、失敗したな、と思う。

 

「普通」を無意識に想定している人間は、「普通じゃないもの」に出会ったときに「困惑した表情」を浮かべる。この主人公も、これまでに何度もその表情を向けられてきたのだろう。しかし、そのように見られても、彼女は怒ったり、ましてや恥ずかしいと感じるのではなく、「迷惑だなあ、なんでそんなに安心したいんだろう」と思うのだ。このあたりの描写には、どこか頼もしさすら感じてしまうのだが、はたして、この主人公は、いつまで今のままの生活を続けられるのだろうか、はたまた、「普通」の側に新たな幸福を見出すことになるのか、そもそもいったい、どこまで本気でこの生活を続けていこうと思っているのか、などなど、いろいろな期待や不安が渦巻ながら、物語は後半へ。